ゲームにならできる、ゲームにしかできないことがある。
コンピュータゲームというものが世に出てから、かなりの年月が流れました。
今の中学生や高校生は、世間にコンピュータゲームがなかった頃のことを知りません。
かく言う私も、物心ついた頃には友達の家でテレビゲームに没頭していた記憶がありますから、俗に言うゲーム世代に当たる人間でしょう。
まだ小学生のうちから様々なゲームを遊んできた私にとっても、最近のテレビゲームの進化には目を見張るものがあります。
しかしそれと同時に、現在のゲーム業界が水面下でぶつかっている大きな壁の存在を、ひしひしと感じもするのです。
それは単に、現存する殆どのゲームクリエイターが、コンピュータゲームの本質を見誤っているからだと考えます。
映画のように美しいグラフィックを持つソフトが、名作なのではありません。 どんなに真似ようと、本物を越えることはありえません。 そんなに映画に近づきたければ、映画を作るべきです。
リアルに再現されたカードゲームやボードゲーム、スポーツゲームがゲームの真の可能性なのではありません。 現実を超えるリアルなどありません。 そんなにそれらで遊びたければ、実際にトランプや駒、ボールを使って遊ぶべきです。
多くの人を感動させるストーリーが、良いソフトの条件ではありません。 純粋にストーリーを求めるならば、小説を書くほうが遥かに効率的です。
そうではなく、なぜコンピュータゲームなのか。
私たちが、単なるプログラムであるコンピュータゲームに拘るのは、ゲームでなら、映画では変えられなかったバッドエンドを変えることができると信じるからです。 ゲームでなら、小説とは違い物語に参加できると信じるからです。
今までのゲームでは、主人公は強制的に世界を救わされました。
今までのゲームでは、お姫様はいつも助けを待つだけでした。
今までのゲームでは、魔王は必ず成敗されました。
今までのゲームでは、物語の最後はハッピーエンドと決まっていました。
しかし私たちのゲームは、だれも世界を救ってくれなんて要求しません。 魔王が勝つかもしれない、最後はバッドエンドかもしれません。
ありとあらゆるバッドエンドの可能性のその果てに、それでもとプレイヤーがハッピーエンドを目指すから初めて、ハッピーエンドはハッピーなのです。
台本通りにイベントが進行して、自動的に助かるお姫様が戻ってきたところで、いったい誰が喜ぶでしょうか。
私たちのゲームでは、そう、お姫様だって自力でその窮地を何とかする可能性を与えます。 眠り姫は、もう起こされることを待ちはしないのです。
助けたくないのなら助けなくていい自由がプレイヤーにはあります。 その先にある現実が望むものならば、魔王になるのもいいでしょう。
そんな状況で、本当に人が幸せになるということに価値があると信じることができる強いプレイヤーが生まれたなら。 そのプレイヤーが、本当にそのゲームの世界をハッピーエンドに導けたなら。
どうでしょう、そんなプレイヤーの生きるこの現実世界も、少しはマシになるとは思いませんか。
なにも私たちは、ゲームが人を幸せにするだとか、大それたことを言いたいわけではありません。 人を幸せにするのは所詮人です。
コンピュータゲームはつまるところデータと演算の集合でしかありません。
それでも、私たちヌースはゲームにならできる、ゲームにしかできないことがあることを知っています。
ゲームは、人に人自身を幸せにする力を与えることができるのです。
だからこそ、私たちはそんなゲームが作りたい。
サークル・ヌース代表
CTB